山田風太郎著「警視庁草紙」を読んで
警視庁草紙
1994 03/04
UP:2021/06/22
「三太郎」と言うと、まずはCMでお馴染みの昔話の主人公ということになるのでしょうか。でも読書好きには、歴史小説の「三太郎」が浮かぶのでは。即ち、司馬遼太郎、池波正太郎、そして、山田風太郎。
「司馬史観」という言葉さえあるように、まさに国民の歴史教科書ともいうべき長編小説を多数書いた遼太郎。ハードボイルド的な作風の中で、人情の機微とグルメを描き、大人の作法を説いた正太郎。この「二太郎」に対して、風太郎は、荒唐無稽な忍法帖の作者として、若干低く見られてはいないでしょうか。しかし、風太郎作品を原作にした映画や漫画に夢中になって、秘術を身につけた超人的な忍者たちの闘いに手に汗握り、柳生十兵衛に憧れた方は多いはず。実は私もその一人。
そんな風太郎先生には、明治時代を舞台にした作品がいくつかあって、その中の一つ、「警視庁草紙」は、奇想天外なストーリー展開と知的遊びをふんだんに取り入れた、読み手を飽きさせないエンターテイメントでありながら、尚且、胸に迫るような深い哲学さえ感じさせてくれる、とにかく、すごいとしか言いようがない傑作です。
小説の舞台は明治六年の東京。大警視川路利良率いる明治政府の警察に対して、時には真犯人を探し当て、またある時は捜査を撹乱するという風に、事件の度に、からかうようにちょっかいを出す元南町奉行所の一派。この近代と江戸の警察組織の対決という大枠に沿って、実際に起きた事件を交えながら展開する物語が、まず理屈抜きに面白い。
そして、この作品をより興味深いものにしているのが、事件ごとに登場する実在の人物の多彩さです。ほんの一例を上げるなら、西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆、井上馨といった明治の元勲たち。対して、佐川官兵衛、斎藤一など戊辰戦争に負けた側の人々。漱石、鴎外、一葉、円朝といった文化・芸能人。乃木希典や芝五郎といった軍人。または、高橋お伝や清水次郎長といった、幕末から明治初期を彩った知る人ぞ知る人物たち。更には、要人暗殺や政府への反乱を企てる叛逆者たち。言うなれば、教科書にのるような人物から、今で言う週刊誌やワイドショーを賑わせた人物までを、絶妙な形で作品に散りばめる作者の遊び心と知識の広さに只々脱帽し、その手並みの鮮やかさには感動さえ覚えるほどです。ここには、「正史」が取り上げなかったサブカルチャー的なものを含めて、明治という時代、ひいては、日本の近代を描きたいという著者の意図もあるのでしょう。
また、物語の後半、大警視川路に対して元南町奉行駒井相模守が直接ぶつける日本の近代化への疑義、そして、ラストシーンの、西南戦争へ赴く兵士たちの哀切とも悲壮ともとれる描写からは、自身の戦争体験を経て生まれたのであろう、山田風太郎のペシミスティックな歴史観や人生哲学が垣間見られ、胸を揺さぶられます。
「遼太郎や正太郎もいいけど、大人なら、風太郎を読みなさい。」読書について、そんな風に叱咤される時代がくるのでは、などとあらぬことを、あまりに感動した私は妄想してしまうほどです。コロナ禍で外出もままなりませんが、こんな本が手元にあれば、それを辛いとも思わなくなりますね。とにかく、多くのみなさんにオススメしたい一冊です。
『警視庁草紙』
著者:山田風太郎
発行元:河出書房新社
発行年:1994年