チェルフィッチュの映像演劇 鑑賞レポート

チェルフィッチュの〈映像演劇〉「風景、世界、アクシデント、すべてこの部屋の外側の出来事」

札幌文化芸術交流センター SCARTS(札幌市民交流プラザ1-2階)
アートその他演劇

2020 07/14

2020 08/01

UP:2020/07/24

デンマークの悩める王子は「演劇は世界を映す鏡だ」と言った。その例に倣うなら、チェルフィッチュの映像演劇は、「演劇を映す鏡」だと言えるだろう。演劇を観ることで、人はそこに反映されている世界の事象について考えを深める。同じように、映像演劇は、演劇とは何かについて観る人に問いかけてくる。

例えば、展示された四つの作品のなかの一つ、「ダイアローグの革命」では、男女二人の俳優が革命についての考察を述べ合うのだが、お互い向き合ってやり取りをすることは無い。また、台詞を言いながら体を動かすのだが、それがなんともぎこちない踊りのようで、話している内容と合っているようにはとても観えない。ダイアローグと謳っておきながら、およそ対話とは思えず、本来それが演劇の場で生むであろう緊張感や劇的な盛り上がりとは無縁だ。これが何故演劇なのかという思いが湧いてくる。

その他の作品においても、そこには演劇らしいものがほとんど無い。目を楽しませてくれる豪華なセットも、聴き惚れるような台詞の応酬も無い。そもそもが劇場で上演されているわけでもなく、舞台があるわけでもない。生身の俳優はおらず、演技している映像が映し出される。強いて言えば、「映像演劇」という言葉の中にだけ演劇がある。

しかし、そう思うことが既に、演劇とは何か考えている証拠なのだろう。そして、それを考え始めると、演劇と日常生活の違いは何かという問いさえ浮かんでくる。日々の生活の中で、私達は演じていないだろうか。例えば、会社では課長を、家庭ではお父さんを、また、近所付き合いでは愛想の良い隣人を。社会生活の様々な場面で、自ら選んだ、また時には周りから求められる「役」を、演じているのではないだろうか。それは日常生活を安定させるのに大切である一方、ひょっとすると、傍から見ると滑稽に見えるのかもしれない。まるで、「ダイアローグの革命」に出てくる二人の動きのように。

合わせ鏡をするとその中の像が無限に映るように、「映像演劇」に向かい合ったとき時、演劇と日常生活、更には人間そのものについて、様々な考えが浮かんでくる。コロナの影響で劇場に行けるようになるにはまだ時間が掛かりそうだが、そんな時だからこそ、演劇について自由に考えを深めるのも良い機会だと思った。

鑑賞データ
日時:2020年7月18日
場所:札幌市民交流プラザ SCARTSコート

朝日泰輔

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朝日泰輔