神田日勝展 大地への筆触 -ここで描く、ここで生きる-
神田日勝回顧展 大地への筆触
2020 09/19
|ー2020 11/08
UP:2021/07/14
日勝が7歳の終戦の前日、一家は戦火を逃れ東京から北海道鹿追町に開拓農民として入植した。国からの援助もなく厳しい生活を強いられ多くの方が離農する中で、親から引き継いだ開拓と農業を日勝は絵を描きながらも手放さなかった。画業は10数年と短かった日勝を支えたエネルギーの源泉は何だったのだろうか?
絵画人生の前半は日常目にする農家の廃屋やゴミ箱、牛や馬などを茶褐色の暗いトーンでリアルに描いており、これらの作品からは当時の厳しい生活がひしひしと伝わってきた。ところが後半の作品は一変した。赤や黄・緑・青の原色を用いてカラフルな表現に変わった。特に牛や馬と人を描いた作品は大胆でアンフォルメルな表現になっていた。私はこの画風の急変に日勝の内に秘められていたものの発露を見た。日勝は北の大地をこよなく愛し、そして、農業を支えてくれた馬や牛を愛していたことは、何度も絵のモチーフにしていたことからも明らかである。牛や馬と共に土地を耕し作物を収穫することとその馬や牛をモチーフにベニア板にペインティングナイフで絵の具を擦り付ける行為は深く結びついていた。リアルな表現の裸の馬には働き続けている証として馬具の擦れた痕が必ず描かれていた。裸の馬は日勝自身の自由を、馬具の痕は日勝の努力に対する勲章を表していた。このように農業と画業は、日勝にとって日々の生活のサイクルとして一体化していたのである。そして、はち切れんばかりに膨らんだ乳房の牛や頭を天に向けた開放的な馬の表現、そして輝く太陽の下での男女の抱擁の表現など全てが、今まで抑制していた感情が爆発したかのようであった。
十勝の厳しい自然と農業を愛し、妻を愛し、馬や牛を愛していた日勝の作品は正に生命・愛・自然への賛歌を表していた。絶筆と言われている「半身の馬」の目の表現は、今までとは違って暖色を帯びていて、日勝の新たな絵画表現の展開を暗示しているようであった。