アーティストインタビュー:進藤冬華

『進藤冬華 | 移住の子』

モエレ沼公園ガラスのピラミッド
アート特集

2019 07/20

2019 08/25

UP:2019/09/01

作品ができる時は、いつも何かの途中だという感じがすごくある

『8つの旗』 撮影:露口啓二

 

小山:『8つの旗』は、『American Progress』(1872年、John Gast)という、当時よく普及していた絵を引用して描かれています。この『American Progress』は、アメリカの、”文明開化の名の下に西部開拓を推進する”というアイデアを図像化したもので、絵を見ると自由の女神のような女性が、当時最先端の技術であった電信線を携え、東から西を目指して飛んでいます。その周りに農耕をする人や、追われる先住民、東から西へ向かう鉄道汽車や、明るい東の空などが描かれています。まさに、西部開拓こそがアメリカの未来である!やっていくんだ!というような絵です。しかし進藤さんの作品では、女神はジャージを着たコンビニ帰りの男性になり、なぜここに?というところに馬がいたり、お墓が並んでいたりするわけです。そしてその図が8つの旗に分けられ、後ろから見ると「インフラ」「教育」「産業」「戦力」「資源」「移住」「制度」という8つの言葉がそれぞれに一つずつ書かれています。展覧会の入り口にゲートのように設置されているし、とても象徴的な作品ですよね。

 

田中か:私もあのフラッグの作品が一番に目に飛び込んできて、進藤さんを表しているのかなと思いました。

 

杉谷:旗のカットの仕方だとか、そこに書いてある文字はやっぱり、この元となった絵に関連づけて決められているのでしょうか。

ギャラリートーク時、『American Progress』について言及する進藤。

 

進藤:いえ、そこはあまり考えないようにしてます。この『American Progress』の絵のつまらないところは、すごく説明的なところだと思うんですよね。そういう意味ではもっと全然わからないように、あまり説明的にしないようにという意識がありました。それと、リサーチをすると、作品がこの絵に似てしまうことがあるんですよ。起こったことを説明するような作品になってしまいやすい。そういう事も気をつけたいなと思って、こういう作品にしています。作品自体も、やったことを分かりやすく説明するようなものにならないよう、自分に言い聞かせているような所がありますね。

 

田中か:ディスプレイの仕方のせいか、アメリカの国旗のようなイメージがありました。

 

進藤:確かに。アメリカってどこにでも、旗がありますよね。それは日本とは違う感じがします。あれが全て日本の旗だと思うと、少し危ない感じがするんですが、アメリカは多民族だから、あの旗がない限りみんながバラバラになってしまうという感覚があるんだろうなと思います。『8つの旗』を分割したのは、やはり旗というのは何かを獲った印で、シンボリックなものだからです。国旗にはだいたいシンボルが付いているのですが、その中心のようなものからちょっとズラすみたいな気持ちもあって、分割してどこが中心だか分からないようにしています。

 

川内:会場で配布されている作家解説では、『8つの旗』は一番はじめにきています。作品を創りだす順序は、この作品解説の番号の通りなのでしょうか?この旗は、いろいろな要素がまとまっているような印象があったので、最初に作ったのか、最後に作ったのかで自分の見方が大きく変わるような気がしました。

 

進藤:なるほど。作品解説の掲載は制作順ではないですね。旗は最後の方に作りました。やはりいろいろな要素が混ざっているし、8つに分けたので複雑になってしまったなという感じがしています。作品ができる時は、いつも何かの途中だという感じがすごくあるんです。作品のリサーチが進んでいっているある時、作品を作らなきゃならない時がきますよね。私だったらそれが、展覧会という〆切だったりするのですが。それって作品を作らなければならないタイミングの時に、その時思っていることが作品になるだけで、「これが完成形だ」という事はないような気がします。今だからこういう作品になったけど、例えば5年後に同じことをやったら、同じ作品は作らないんじゃないかとも思います。


日常のものから入っていくような視点


撮影:露口啓二

田中か:もう一つ、私が面白いと思ったのは、日常のものから入っていくような視点です。それによって、作品が親しみやすくなっているし、入っていきやすいと思います。

 

進藤:ありがとうございます。そうですね、やっぱり今の普段の生活と重ねていかないと、なかなか意味が分からないし、理解できないような気がしています。突然「これはケプロンです」と言われても「それは誰?」ってなりますよね。私もケプロンの日誌を読んだときに、それまでは、本当に居たかどうかも分からない歴史上の「銅像になっているおじさん」でしかなかったケプロンが、本当にここに存在していた人なんだという事を初めて実感したんです。すっごい怒ったりとか、めちゃめちゃディスってたりとか、彼の激しい感情のようなものがこの中に出ていることで、この人は本当にここに生きてたんだなって、強く思いました。彼の、普通に生きていた暮らしが見えたからだと思います。この日誌は、難しい言葉も一つも使っていないし図書館とかにもあるので、機会があればめくってみるのも面白いですよ。

『ケプロンと黒田の像ーピクルス』 撮影:露口啓二

 

杉谷:置かれていた日誌を見ても、ケプロンが不満を漏らすところがすごく多いなと思いました。この人、文句ばっかり言ってるなって(笑)。

 

田中か:釘1本買うにも申請書が必要だって書いてあって。「役人が腐っている!」って言ったりとか。

 

進藤:今の日本と変わらないなって思いますよね。これだけ経っても変わらないなら、ずっと変わらないんだろうなって気がします。

『ケプロンと黒田の像ー切り干し大根』 撮影:露口啓二

 

杉谷:でも、開拓をテーマに資料を集めようとしたら、暗い話が多かったのではないかと想像するのですが、進藤さんの作品は、あまり暗い感じがしませんね。もちろん重いテーマが背後には見えるのですが、いかにも「私、辛かったんです」というような語りだとか、そういう暗さは取らないようにしているのかなと思いました。

 

進藤:それはおそらく、私がどこにフォーカスを当てたかだと思います。今回は制度を作った政府側というか、権力を持っている側の視点から見ているので、開拓して辛かったとか、アイヌの人でひどい目に遭ったとか、そちらの側には立ってないんですよね。ですので、これを違うポジションからリサーチして見ていくと、きっともっと重苦しいものになるのかもしれないとは思います。

 

田中か:掘り下げる視点、どちらの側で見るのかが違うと、確実に見える姿も違うものになりますよね。

 

進藤:全然違うと思うんですよね。開拓時に移住した入植者側の話だと、あの人が死んだとか、疲れて本州に帰っちゃったとか、きっとずっと辛い現場の話が沢山出てくると思います。


その「共有できなさ」は、私が作品を作る大きな理由の一つになっていると思うんです。

『想像上のレプリカ』 撮影:露口啓二

朝日:今回の展示の中で、『想像上のレプリカ』というシリーズがありますね。ケプロンが日本滞在中に集めたアンティークのコレクションを、その文字資料だけを元に、想像してレプリカを作ったというものです。面白くて大好きだったのですけれど、これを作ろうと思ったキッカケはありますか。

 

進藤:これは、やはり本物の像が分からないところが面白かったんです。それに、このケプロンのコレクションに対する解説や作品資料を読んだときに、私も知らない話がたくさんありました。そもそも、ケプロンが集めたコレクションも、全てが日本の王道のアンティークというわけではなかったのではないかと思います。北海道ってやっぱりある種、日本の王道とは外れている部分がありますから。それも含めて、自分の中にすごく距離感がありました。見えているものとの距離感です。だから、きちんとしたレプリカには絶対にならないという自信もあったし、ズレていく感覚が、とても大きくありました。

例えば北海道の人には、自分を「日本人」というカテゴリーに入れたとしても、日本人らしいステレオタイプをどこか共有できない部分があるのではないかと私は思っています。そしてその「共有できなさ」は、私が作品を作る大きな理由の一つになっていると思うんです。

例えば、北海道には元々、先住民族のアイヌ文化があるのですが、もちろんそれは自分のものとは違います。私の先祖は本州から来ているようです。でもだからといって、私に本州との共通点があるかと言うと、微妙なんです。明治以前に先祖が何をしていたかとか、どこから来たかも分からない場合があったりして、宙ぶらりんの部分があるように思います。

本州に行って友人と話していると、その場所の歴史的な出来事だとか、自分の何代か前の人の話だとかにすぐ結びつくなと思うんですけが、北海道ってそういう話になりにくい。なんか「今しか生きてない」という感じがあります。

 

杉谷:私は本州で育って、大学から北海道なのですが、北海道の人と話をしていると、歴史の認識が全く違うような気がします。私の地域では、小学校で郷土史の学習をするんです。だから、みんな地域の歴史的な事を知っているし、誰がどこに住んでいるかも知っているし、自分の先祖の事もみんな知っている。もちろん、うちがお寺だからというのもあるとは思うんですが。

 

進藤:それはすごい。

『過去 ⇆ 今』 撮影:露口啓二

杉谷:でも、北海道の人に聞いてみると、その家が何代前から北海道へ来たのかとか、本州では何をしていたのかと聞いても、あまりよく分からないという人が多い。この辺りの地域の歴史的な事を聞いても、よくわからなかったりして。どんな風に考えているのだろうと思っていました。

 

進藤:やっぱり、今しか生きなくても生きれてしまうのが北海道だと私は思います。みなさんもそんな気持ちがあるのではないでしょうか。

 

田中か:私も札幌に来て9年目なんですが、北海道って、本州から来ると海を渡らなきゃいけないというのもあって、半分外国のようなイメージがあるんです。北海道ってなんとなくアメリカにも似ているし、中国の人で北海道を好きな方が多いと聞くのは、その大らかな考え方や容認するような気質が好まれているんだろうなと感じる時があります。歴史のことで言うと、確かに私も150年前の4代前まで、自分の祖先が誰だったか、何をしていたかは知っていますね。

 

一同:へー!

 

進藤:やっぱり、過去とか歴史への意識は全然違いますよね。それに、そういう事を知って生きるのと、何もなく生きるのとでは、背負っているものが本当に変わってくる気がします。過去の事物に対して、思いを馳せつつ生活していくのと、何にもなく生きていくことは。それは、今のような制作をするようになってから考える様になりました。

朝日:いま、本州の方は過去を意識されているが、北海道の人は意識していないんじゃないかという話が出ていましが、進藤さんとしてはどちらが幸せだとか、どちらが良いかという思いはありますか。どちらかに割りきれる話ではないとは思うのですが。

 

進藤:そうですね、どちらかとは言えないんですが、でも、家族の歴史を知っていて背景をもっているというのは、要するに、今生きていない人だとか、ここにいない人のことを考えるということではないでしょうか。それって、すごいことだと思うんですよね。応用ができるというか、未来の人に対しても同じように感じることができるかもしれないし、自分の周りにいる人についても、考えを及ばせられるようにも思います。一方、北海道のように、その背景のようなものがあまり感じられない場合というのは、そういった気質が育ちにくい部分があるのではないかと、考えてしまうことはあります。どっちがいいのかという事ではないのですが。おそらく、そういう過去のお家のこととかを考えながら暮らすのは、私には無理なんじゃないかとは思います。

 

川内:息苦しいですか?

 

進藤:うん、すごく大変だなって思いますね。2016年に対馬という九州の島で滞在制作をしたのですが、そこでは道路だとか畑だとか、色々なところに祠があったし、森に入れば石が神様として祀られていたりとか、本当に神様だらけでした。それはやっぱり、誰かがそれを気にしてお世話をしているんですよね。 そういうのを見ていたら、とてもじゃないけど私はここには暮らせないなって思いました。すごく変な例えなんですけど、例えば道路を歩いていてオナラをしたとしますよね。北海道だと「ま、いいか」ってなるんですけど、対馬だときっと「あっ、神様に聞かれてしまった!」みたいに考えてしまうと思うんです。そういった意識の違いがあるんじゃないかなと思うんです。

 

杉谷:あはは!でも本当に、北海道ではそれは全然なさそうですよね。

 

田中ま:私も北海道に移住して1年なのですが、その違いの話はとても興味深いです。私は今まで進藤さんの作品を存じ上げてなくて、今回の取材にあたって、はじめて進藤さんの作品に触れさせていただいたんですけれども、アートコミュニケーターの仲間と色々と話し合っていくうちに、なぜだか自分自身の先祖のことだとか、亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんだとか、義理の父のことなどを思い出したりしていました。彼らが近くにいた頃は、いろいろ話してはいても、響いた言葉ってあまりなかったのですが、進藤さんの取材のために作品資料を見たり、考えたりしていくうちに、今まで気づいていなかった先代の人たちの言葉が妙に気になったり、いろんな人の姿を思い浮かべたり、夢にまで出たり。今回そういうことがたくさんあって不思議だなと思っていました。

 

進藤:ありがとうございます。わたしの作品をみて、自分の背景を考えたりだとか、そういう風に見てもらえるのはとても嬉しいです。

(3ページ目へつづく)

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