ひらくラジオ①「勝手に始める”批評”のススメ」ゲスト:福住廉さん(美術評論家)

SCARTSアートコミュニケーター「ひらく」1期生 卒業(仮)展

札幌文化芸術交流センター SCARTS(札幌市民交流プラザ1-2階)
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2022 02/26

2022 02/28

UP:2022/12/09

意見の多様性を担保するのが民主主義

 

齋藤|福住さんは素人による表現や文章に大きな期待を寄せる反面、プロの美術評論家たちの現状は悲観的に見ているように思います。特に、「批評家」を名乗る人たちが批評を書いていないということをずっと問題にされていますよね。どうして批評というものがロールモデルとして成立しなくなってしまったのでしょうか。

 

福住|一つには「批評」と「批判」が混同されていて、しかも批判が悪のような扱いを受けているという問題があります。もう一つは、学芸員やキュレーター、文化施設職員などの文化生産者の問題があります。彼ら/彼女たちは批評の多様性が必要だと言うけれど、そのわりにはぜんぜん歓迎していない。つまり批判されたくない、ネガティブな評価を受けたくないっていう本音があるわけじゃないですか。褒められたいけど、けなされたくはないっていう非常に生々しい本音が。だから新聞記者やプロフェッショナルな批評家に褒められたらその記事を採用するけど、けなされたら無視するわけです。そこが後半の民主主義の話にも関わっていて、つまり本当に民主主義という価値観を大切にしたいのであれば、そういった意見の多様性をちゃんと自分たちで担保して、肯定的なものも否定的なものも含めて受け止めなければならない。近代以降、民主主義という制度が確立されたけれども、じつはそれがまだ根付いていない、未熟な段階にあるということがあらわになっているのではないでしょうか。

 

齋藤|自由と民主主義をセットに社会を発展させていくという体制の雲行きが怪しくなるような事態も世界中で起こっていますが、でも、やっぱり民主主義は守らなきゃいけないっていうのが福住さんの立場なんですね。実はそれは少し意外です。これまでの福住さんの活動をみていると、むしろ民主主義の外側から社会を撹乱していく方向に肩入れをしていくのかなと思っていたんですけれども。

 

福住|象徴や皮肉によって社会的撹乱を楽しめた時代は、もう10年以上前に終わっている気がするんですね。権威主義的な体制が強くなっていて、表現の自由を力で弾圧するような動きが実際に出てきているわけだから、象徴や皮肉のコードを共有する前につぶされてしまう恐れが高いし、そういう事態を対岸の火事だといって済ますわけにはいかなくなっているのが現状でしょう。

 

 

齋藤|最近福住さんは『公の時代』(卯城竜太、松田修 著、朝日出版社、2019年)という本で、卯城竜太さんと松田修さんと鼎談をしていますが、そこでも表現の自由の話をしていますね。

 

福住|あの本の中で、松田くんが落語の小話のように何回も同じ話をしていますよね。公園で飯食ってただけなのに通報されたっていう(笑)。公園っていうのはそもそも「公」の土地なので、誰も私有していない共有の場所のはずです。それなのに、「何かヤバそうなおじさんが⼀⼈で弁当を⾷ってる」というだけで通報されてしまう(笑)。

 

齋藤|それはひどい(笑)。「公」というのは定義が難しい言葉ですが、少なくとも近代的な公共性を指す場合、その対義語は「私」です。だから公共空間は誰かが独占することはできないし、基本的には万人に開かれているはずです。でも、まさに松田さんの話がそうですが、「公」というものがマジョリティにとって心地良いものとして想定されていて、そこに当てはまらないものが排除されてしまっている。これは、アートコミュニケーション事業のようないわゆる市民参加事業にも当てはまります。定義上、「市民」というからにはそれこそどんなに「ヤバい人」であっても含まれるはずだし、だからこそ社会は面白い。だから、アートコミュニケーターのようにオープンに⼈を集めるのは本当はとても鋭利なことで、想定外のことが起こるからこそ意義があるはずです。しかし、この手の事業を考える時には、いつの間にか「市民」という枠組に「幅」を狭めてしまうことがあります。このことには常に気をつけなければならないな、と思っています。

 

福住|じつはそういう市民こそが表現の自由を弾圧するような気がしていて、ある物事や人を自分たちにとっての外部や他者として認定した途端に、それを排除対象にしてしまう。他者との対話の延長線上に公というものが成り立つというのが、少なくとも近代のストーリーだったはずなのに、今は「何かあいつヤバそう!」という雰囲気とか印象だけで排除するというのが普通になっているわけじゃないですか。正直なところ、対話なんかそもそも必要としていないわけでしょう。それは怖いですよね。

 

齋藤|そう考えると、この『公の時代』のもうひとつのテーマである「⼤正時代」の話は面白かったですよね。この本で福住さんが紹介するのは、⼤正時代に跋扈(ばっこ)していた「ヤバい人たち」のエピソードの数々です。彼らが社会を変革させたダイナミズムには目を見張るものがありますが、しかしそのあとすぐに戦争が起きて、みんな駆り出されていく。これは今でも起こり得ることなんだと思います。例えば昨日ロシアによるウクライナ侵攻が始まりましたが、ちょっと前まで平和を享受している人たちがいたのに、今は実際に戦争が起こっている。このギャップって何なんだということをやっぱり考えるわけじゃないですか。そこでどういうアクションをしたらいいのかを考える上で、たぶんアートが一番役に立つと僕は思っているからアートが好きなんですけど。

 

福住|戦争に巻き込まれていく直前の個が生き生きとしていた大正時代を、集団に埋没して流されてしまう時代に対する一つの楔のような、歴史的な原点として考える必要があるんじゃないかということですね。アナクロニズムとはいうものの昔に回帰することはできないんだけど、それこそ批評的な意味づけによって大正時代をとらえなおすことはできると思うわけです。

 

(4ページ目「素人のプロフェッショナルな部分が見たい」に続く)

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