hitaruオペラプロジェクト・プレ公演「蝶々夫人」鑑賞レポート

hitaruオペラプロジェクト プレ公演『蝶々夫人』

札幌文化芸術劇場 hitaru
オペラ

2021 02/21

UP:2021/02/26

私にとってオペラとは、まずなにより音楽ですので、今回の公演は本当に素晴らしいものでした。タイトル・ロールの佐々木アンリさんは、澄んだ歌声が蝶々さんの気高さそのものといった趣でした。第一幕のピンカートンとの二重唱では、愛の陶酔の中でも気品を失わず、第二幕のアリア「ある晴れた日に」では、切ない感情とともに、愛する人を信じる意志のこもった見事な歌唱を聴かせてくれました。また、死を決意した幕切れの絶唱は、一人の女性の誇りを聴くものに強く印象づけ、全幕を通じて、その歌声は本当に感動的でした。

その蝶々さんの夫となるピンカートンという役の人物像について、私はこれまでCDでこのオペラを聴いて、さほど深く考えたことはありませんでした。こんなことを書くと怒られるかもしれませんが、正直オペラのテノールなんて、気持ちのいい声を聴かせてくれればそれで十分と思っていたのです。しかし、今回の岡崎正治さんの歌と演技からは、この人物がそれぞれの場面で抱いている驕り、愛情と戸惑い、そして悔恨といった感情がとても良く理解できました。そんな発見と説得力に満ちた、見事な歌と演技だったと言えます。また、詳しく触れられず申し訳ありませんが、北海道二期会のみなさんによる各役、いずれも素晴らしい出来でした。

ピットに入った札響は、改めてオペラに対する順応力の高さを示しました。特に弦の艷やかな響きが印象的で、それは蝶々さんの精神的な美しさを表現しているようです。また、ドラマのクライマックスにおける、管楽器の咆哮と打楽器の強打は、このオペラが単なる通俗的なメロドラマではない、真の悲劇であることを聴き手に訴えかけます。このオケと歌手陣をまとめ上げた指揮者の柴田真郁さんの貢献は、今回の公演の成功に対して大きなものであったと思います。

このように音楽的に大変充実した上演でしたが、もちろオペラは音楽だけで成り立つものではなく、そこには芝居の要素もあります。そして、優れた演出でオペラを鑑賞すると、まるでその作品を初めて理解できたような気がするものですが、まさに今回の公演はそのような経験でした。プッチーニの歌劇「蝶々夫人」がどんな物語なのか、私は初めて分かったように思います。

「蝶々夫人」は「帝国主義の物語」だったのだと、私は理解しました。大国がむき出しのエゴで小国を従属させる、それはピンカートンと蝶々夫人の関係に反映されています。そして、帝国主義は国と国との政治・経済・軍事の対決だけではなく、文化すなわち精神や心の部分にも影響を与える。今回の上演を鑑賞して、蝶々さんとは、押寄せる帝国主義の荒波に対して、精神の領域で屈することを拒んだ人物だったという印象を持ちました。

蝶々さんは何故、最後まで着物姿なのでしょうか。今まで当たり前のことに思えて、考えたことはありませんでした。しかし、今回の舞台で、日本人の登場人物、特に男性が洋装で登場するのを観て、その対比で、蝶々さんの着物が何かを象徴しているように思えてなりませんでした。

蝶々さんはピンカートンと結婚するために改宗します。それを婚礼の席で男たちは糾弾します。しかし、彼らは着物を捨て、洋装しています。第二幕にヤマドリという日本人が登場し、ピンカートンに捨てられたと思われる蝶々さんに金をちらつかせながら言い寄ります。その彼はまるでお笑い芸人のような金ピカのタキシード姿。これはピンカートンのカリカチュアに他なりません。帝国主義下の世界における強国と小国との関係が、今度は小国のなかで、富めるものと貧しいものの関係として反復されています。ヤマドリという人物は、帝国主義の時代を生きる中で、いつのまにか自分も「内なる帝国主義者」になってしまったのでしょう。着物姿の蝶々さんは、そんなヤマドリを拒みます。

最後まで刀を手放さなかったのも蝶々さんでした。開幕してすぐに、何か鬱屈した感情を晴らすかのように刀を振り上げる人物が登場しますが、彼はピンカートンが現れるとその刀を隠し、以降は刀を持つことはありません。軍事力ではピンカートンが象徴する大国に、勝てないことを知っているからでしょう。

政治・経済・軍事、これらは一般的に「男の世界」と認識されています。今回の演出では、むき出しの男性原理の世界と言える帝国主義の下、男たちは洋装し刀を手放します。つまり、その一員になります。蝶々さんの改宗は、一見、洋装や廃刀以上の裏切りに見えますが、しかしそれは、他文化を理解しようという心情ではなかったのか。そんな蝶々さんの異文化への寛容さにあって、絶対に譲れない誇りがあることを、着物と刀が象徴していたのではないかと思います。

加えて興味深かったのは、二幕第二場で再登場するピンカートンが、怪我か病気か分かりませんが、不自由な身体になっているところです。こうした演出を私は初めて観ました。そこには、力を誇る大国も、帝国主義の覇権争いのなかでは傷つかざるを得ないという演出家のメッセージを感じました。勝ち誇ったものたちも傷つくなかで、自分たちの非道を後悔するに違いありません。そして、この設定により、故国でアメリカ人女性と正式に結婚したピンカートンが、何故、蝶々さんとの間に生まれた子供を引き取るのかという背景が明確になったと思います。ピンカートンは「愛することが出来ない身体」になったのでしょう。そうした身体で、家を存続させるために男の子を引き取ったのだとしたら、やはりここにも「男性原理」が見え隠れします。悔恨とエゴが入り混じった、とても興味深い演出だったと思います。

帝国主義なんて、しょせんそれは昔話と言われるかもしれません。しかし、今まさに、私達は新しい帝国主義ともいえるグローバリゼーションの世界に生きています。今日も新しいピンカートンは富を求めて世界を駆け巡り、彼に感化された新しいヤマドリは欲望を無条件で肯定して自分の国を闊歩しています。そんな喧騒の中、今もどこかで蝶々さんは、お金では譲り渡さない大切なものを胸の奥に抱きながら、「ある晴れた日に」穏やかな生活が訪れることを待っているのです。

プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を、これだけ今日のドラマとして浮かび上がらせた今回の演出については、絶賛を惜しみません。

現在のコロナ禍において、多額の費用をかけてオペラを上演する意味はあるのかという意見もあるかと思います。それに対しては、自信をもって、あると答えましょう。オペラは百年以上前に西洋で作られた舞台芸術という定義を超えて、まさに今日を生きている芸術です。そして、もちろんオペラが唯一の尺度ではありませんが、その地域がどれだけ文化的に恵まれているかの証のひとつであると言えます。オペラを上演するには音楽関係だけではなく、舞台、衣装など幅広いジャンルの協力が必要だからです。

今回の舞台は、札幌が文化的にとても豊かな街であることを証明した、大変意義のある充実した上演でした。今後、hitaruオペラプロジェクトが、さらなる成果を生み出せるように微力ながら応援し続けたいと思います。

朝日泰輔

レポート

朝日泰輔