シネマ歌舞伎「熊谷陣屋」

シネマ歌舞伎「熊谷陣屋」

映画
映画演劇

2021 11/21

UP:2021/11/29

学生の頃から歌舞伎を観ていたと言うと、時々、裕福な家庭のおぼっちゃんかと誤解されてしまう。どうやら、歌舞伎のチケットは高額だというイメージがあるようだ。実際、現在の歌舞伎座の一等席は15000円であり、安い値段ではない。しかし、学生の頃はもちろんそんな席に座ったことはないし、社会人になってお給料をもらってからも、ボーナスが出たときなどに数回座ったきりで、もっぱら3階の一番安い席で歌舞伎を楽しんでいた。頻繁に通っていた学生の頃、確かその席の料金は2500円で、映画を学割や前売りを使わずに観たら1800円だったから、映画館に行ってラーメンを食べて帰ってくるのと同じくらいの値段という気持ちだった。むしろ、おにぎりでも持って歌舞伎座でその料金を払えば、半日、有名俳優の生の芝居を楽しめるのだから、安いものだと思っていた。

そんな安い席でちゃんと観えるのかというと、残念ながら花道は、せり出した二階席と三階席の下に隠れてしまうので殆ど見えないのだが、本舞台に関しては十分役者の姿を観ることができるし、台詞もしっかり聴こえて、まったく鑑賞に支障はない。オペラグラスを片手に役者の姿を追いかけている方もいるが、もとより、私は舞台全体の動きを見渡したいので、劇場の天井に近いその席になんの不満も感じなかった。更に、その芝居が良ければ何回も観ようと思っていたので、安いということに越したことはなかった。

そんなふうに歌舞伎を楽しんでいたので、シネマ歌舞伎が、「劇場では観られない役者の表情を観られる」ということを売りにしていても、特段そのことに食指が動くことはなかった。しかし、大ファンである中村吉右衛門の屈指の当たり役であり、何度も生の舞台に触れて感動した「熊谷陣屋」であれば是非観ておこうと思い、朝早くから映画館へ足を運んだ。そして、昔3階席からは観えなかった吉右衛門の汗だくの顔や、最後の台詞を言いながら浮かべる涙を目にして、大いに心を打たれた。何度も繰り返し演じている役ではあるが、毎回このような気迫で、まさに、全身全霊をかけて舞台を務められていたのだということを、改めて痛感した。このような演技なればこそ、舞台から遠く離れた3階で観ていても感動したのだろう。

吉右衛門の熊谷は当代きってのものと言うに相応しいが、その周りを固める俳優陣もまた素晴らしい。坂田藤十郎の相模は貫禄と情の深さで、この悲劇に余韻を残す。加えて、義経役の中村梅玉の佇まいから伝わる大将としての気品、弥陀六を演じる中村富十郎の力強さと陰影のある感情表現を併せ持つ圧巻の台詞回し。歌舞伎座が建て替え工事に入る前の「さよなら歌舞伎座」と銘打たれた公演に、名優たちは特別の気持ちで舞台に臨んだのだろう。このような記念碑的な上演が、素晴らしい映像で残されたことは、歌舞伎という文化の継承の上でも、非常に意味のあることだったと思う。それほど素晴らしい内容のシネマ歌舞伎であった。

残念ながら、藤十郎、富十郎は鬼籍に入ってしまった。また、吉右衛門は現在、病気療養中で復帰がいつになるか公表はされていない。スクリーンで目の当たりにした、あの見事な舞台はもう観ることが叶わないかもしれないが、せめて、吉右衛門がもう一度舞台に立つ姿は観たい。その時は、歌舞伎座の住み慣れた3階席を降りて1階席に座ろうと思う。その価値は十分すぎるくらいあるだろう。

鑑賞データ
日時:2021年11月21日
場所:札幌シネマフロンティア
作品:シネマ歌舞伎「熊谷陣屋」

朝日泰輔

レポート

朝日泰輔